日本での国葬の内容は?誰が対象になる?

国葬になった人はどんな人がいる?

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戦前と戦後とで国葬の法的意味が異なりますが、戦前では、右大臣の岩倉具視、陸軍大将の有栖川宮熾仁親王、公爵で内閣総理大臣の伊藤博文などが例であり、戦後では、内閣総理大臣の吉田茂が唯一の例です。
異色の国葬としては、日韓併合下で行われた元大韓帝国皇帝の高宗と純宗の例があり、東京ではなく朝鮮の地で執り行われました。

 

国葬を行う法的根拠は、戦前では個別の勅令によるものが初期のもので、大正15年以降の後期は国葬法に基づきました。
個別の勅令による期間が長く、国葬法による期間は短いことがこれで分かります。
戦後は、国葬法が廃止されましたので、内閣の閣議によって決定された例外的対処が一例あるだけです。

国葬では、葬儀費用の全額が支給されますので、法的根拠が必要となり、その法的根拠の性格によって、誰が選ばれるかが影響します。
個別の勅令の場合、国葬令による場合、閣議による場合、この3つの法的性格は違います。

国葬の対象になるのは誰?

国葬の対象になる人物は、国家に多大に貢献した特別な功績があることが基本です。
戦前は皇族または朝鮮王族に列するか、明治維新の功労者であるか、公爵レベルの爵位を有するか、総理大臣クラスの経験者であるか、元帥の経験者であるか、これらの条件を満たす者となります。
ただし、条件を満たしたからと言って、必ずしも国葬になるとは限りません。
国葬は、特別なものであり、個別に判断されます。

 

天皇の葬儀は、一種の国葬ではありますが、「大喪の礼」として別格となります。
天皇以外の皇族の葬儀も、一種の国葬でありながら、普通の国葬とは種類が違うものとして認識されます。

国葬に似たものに国民葬があります。
戦前では、侯爵で内閣総理大臣だった大隈重信が国民葬で、戦後では、内閣総理大臣だった佐藤栄作も国民葬です。

諸外国にも国葬に該当する葬儀がありますが、それぞれの国が故人の特別な国家的功績を独自の基準により判断して決めています。

国葬の流れは?

戦前の例は、もはや参考になるものでなくなり、戦後の例は、例外的な吉田茂の一例しかありませんが、今後に国葬があるとしたら、吉田茂の例が前例として踏襲される可能性があります。
そこで、吉田茂の国葬に至る経過を簡単に追うことにします。

 

1967年10月20日正午頃、吉田茂は、大磯の自宅にて死去しました。
葬儀は、家族によって東京カテドラルで行われましたが、それとは別に、遺骨となった吉田茂は、10月31日に日本武道館で国葬として、国民によって見送られました。
国葬の様子は、テレビの特別番組によって報じられました。

国葬にする法的根拠は、従来、国葬法に拠っていましたが、国葬法が廃止されていたため、当時の総理大臣の佐藤栄作の強い要望により、閣議で決定された特殊なものとなりました。
新憲法では、国による宗教行為の禁止があるため、野党が国葬に反対しましたが、宗教色を薄めることで切り抜け、国民の賛同もあったため、実施できることになりました。

今後の国葬はどうなる?

今後、国葬はどうなるか分かりません。
吉田茂の例は、例外中の例外となり、二度と同じような形にならない可能性が高いです。
その代わり、国民葬が行われる可能性があります。
国葬は、葬儀費用の全額を国費で負担するものですが、国民葬は、全額ではなく一部(大部分)負担です。
あるいは、国民葬ですら困難で、内閣に政党を加えた合同葬になることが多いでしょう。

 

戦後では、国民葬は、佐藤栄作の例があるくらいで、一般的には、内閣と政党とによる合同葬の形式を取ります。
特殊な場合もあり、幣原喜重郎は衆議院葬で、三木武夫は内閣と衆議院とによる合同葬でした。
それ以外の総理大臣経験者の数人は、内閣と政党とによる合同葬でした。

このように、国葬はもちろん国民葬ですら例外で、合同葬が標準になりつつあります。
しかも、合同葬になる対象も、これまでの例では、総理大臣経験者です。

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この記事を書いた人

株式会社日比谷花壇 
フューネラルプロデューサー
金澤 和央(カナザワ カズオ)
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