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みなさんはお彼岸と聞いてどのようなことを思い浮かべるでしょうか?お墓参りや仏壇のお掃除など、供養をする時期ということは知っていても、なぜこの時期に行うのか、詳しいことを知っている方はそれほど多くないかもしれません。この記事では、お彼岸の由来や歴史、なぜ日本に習慣として定着したのかなどを解説していきます。ルーツを知ることで日ごろの供養がより意義深く感じられたり、足が遠のいていたお墓参りのきっかけになれば幸いです。ぜひ最後までお付き合いください。
「暑さ寒さも彼岸まで」という日本の慣用句がありますが、これは春分の日を境に昼の長さが長くなること(秋分の日は逆)で、気温も暖かく、過ごしやすくなってくるという意味になります。お彼岸は春分、秋分の日の前後3日の7日間の期間とされており、季節の変わり目にあたります。この期間に、現在ではお墓参りをはじめとした先祖の供養や、お寺では法要が行われたりする仏教の行事です。しかし、実は仏教発祥の地、インドや他の仏教国ではそういった習慣はなく、お彼岸は日本独自で発展した行事と言えます。なぜ、そのような文化が日本で育ったのか、お彼岸をルーツを紐解いてみましょう。
お彼岸の「彼岸」とは、サンスクリット語の「波羅密多(パーラミター)」を語源としており、これは、お釈迦様のさとりの世界のことになります。現世、もしくは煩悩の世界を「此岸」といい、昼と夜が同じこの期間に此岸から彼岸に至ることができる、と言われています。しかし、前述したように、この時期に特別な供養をするという意味を持たせているのは、日本固有の文化であり、そこにはまた別の由来があると言われています。
奈良時代や平安時代は、祟りや怨霊といった存在が自然災害や病をもたらすと人々は本気で信じており、仏教、神道、陰陽道など、あらゆる神仏に救いを求めた時代でもありました。奈良の平城京から、長岡京、その10年後に、平安京、今の京都に遷都を行ったのは、当時の天皇である桓武天皇が怨霊を封じ込めるための防備のためとも言われています。
当時は、天然痘の流行や洪水、飢饉などあらゆる災が都を襲っており、神仏の力を借りて、その災厄を鎮めようとしていました。その災厄の元と言われたのが、桓武天皇の弟である早良親王。当時、長岡京の造営の責任者であった藤原種継という人物が暗殺される事件が起こり、その犯人が早良親王ということになり、流罪にされました。しかし、早良親王は無実を訴え、流罪になる途中で飲食を断ち、亡くなってしまいます。その後、長岡京には様々な災害が襲うようになり、これは恨みを持った早良親王の祟りだと人々は思うようになり、都を平安京に移し、四方に神社を建て、早良親王を祟道天皇として祀ったうえで、7日間お経を読み続け、魂を鎮めようとしたことがお彼岸の始まりと言われています。
こうした由来もあり、いつしかお彼岸は、先祖を敬い、亡くなった人を供養する行事として日本に根付くようになりました。
お彼岸に時期は、ご先祖様を供養するために、お墓参りをし、お墓にお供え物をします。家に仏壇がある方は、仏壇を掃除し、お供えをします。また、多くのお寺では、お寺の檀家やお墓を持つ人に向け、彼岸会という法要を行っています。
お墓参りと仏壇に掃除に関する動画を作っていますので、併せてご覧ください。
心も洗われる!お墓のお掃除を徹底的にやってみた。仏壇掃除の動画
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