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大喪の礼というのは、日本の天皇が崩御されたときに執り行われる国葬を意味する言葉で、その読み方は「たいそうのれい」です。日本国憲法下では、天皇の葬儀は、国事行為として行われる大喪の礼と、皇室の儀式として行われる大喪儀があり、特に大喪の礼については特定の宗教による儀式とはされていません。これは、宗教分離の考え方に基づくものであり、政治に宗教が介在しないようにあえてそのような扱いとなっているのです。一方、大喪儀については、皇室の私的な儀式と位置付けられていることもあって、皇室祭祀である神道の儀礼に則って執り行われています。もっとも、これはあくまでも明治維新以降の慣例であり、江戸時代以前は長きにわたって仏教の寺院で仏式の作法に則って行われていたのです。大喪儀が現在のように神式で行われるようになったのは、明治期の孝明天皇の三年祭のときからであると言われています。
次に、大喪の礼の対象者は、その時々の天皇というのが原則ですが、2017年に施行された天皇の退位等に関する皇室典範特例法という法律によって、上皇が崩じた場合にも、対象となることが明確にされています。この法律は、当時の平成天皇が退位の意向を示されたことを受けて、有識者や国会における議論を経て制定されたものであり、長年にわたって天皇としての務めを果たしてきたという点を重視して、退位後の天皇である上皇についても大喪の礼の対象としているのです。
ではここからは、大喪の礼が、いつ、どのようにして行われるのかを具体的にイメージできるように、実際の事例について見ていくことにしましょう。なお、現行憲法下で行われた大喪の礼は、2022年時点で昭和天皇の崩御時のものだけですので、ここではその際の流れを中心に紹介します。昭和天皇が崩御されたのは、1989年1月7日であり、その日のうちに政府から公表され、ニュースなどでも繰り返し取り上げられました。その後、直ちに皇太子が剣璽等承継の儀をはじめとする皇位継承のための儀式を行って新たな天皇となり、次いで当時の首相が謹話を発表しています。大喪の礼は、これらの一連の流れの後、1月31日に新天皇によって「昭和天皇」という追号が行われた上で、2月24日に新宿御苑において執り行われたのです。このことからも分かるように、大喪の礼は、天皇の崩御後すぐに行われるわけではありません。当日の流れや参列者の確定と並行して皇位継承の儀式なども同時並行で進める必要があるため、実際には崩御から一月以上を経て行われることになるのです。
昭和天皇の大喪の礼の当日は、公休日となり、ほとんどの公共施設や商業施設は休みとなりました。皇居を出た柩は、沿道の大群衆に見守られながら会場となる新宿御苑に向かい、そこでの儀式を経て東京都八王子市にある武蔵野御陵に収められました。なお、一連の流れの中で葬場殿の儀や陵所の儀からなる斂葬の儀が行われていますが、これらはいずれも皇室行事の大喪儀であるため、厳密には国事行為である大喪の礼とは区別されます。両者の違いは一般的には分かりにくいかもしれませんが、当日は大喪儀が行われる際だけ鳥居が設置されるなど、厳密に大喪の礼と大喪儀とを区別し、混同されないように細心の注意が払われたのです。また、一連の儀式には、世界中の164ヵ国から1万人近くもの人が参列しました。その中にはイギリスの皇太子やアメリカの大統領など、各国のロイヤルファミリーや国家元首級の人物も数多く含まれていたため、警備にも万全の体制が敷かれたのです。
最後に、大喪の礼に関して、八瀬童子(やせどうじ)と呼ばれる人々の存在も知っておいた方が良いでしょう。この八瀬童子というのは、元々は平安期に延暦寺の雑役に従事していた人々で、室町初期の南北朝時代に比叡山に逃れた後醍醐天皇の輿を担いだことがきっかけで代々の天皇のすぐ近くに仕えるようになりました。その名の通り、昔から京都の八瀬地区で暮らしており、その子孫は現在でもその地にいるようです。かつては、この八瀬童子が天皇の柩を担ぐ役割も担っていたため、明治天皇や大正天皇の崩御時には実際に彼らがその任にあたっています。戦後になるとともにその任は解かれたため、昭和天皇の大喪の礼の際には柩を担ぐことはしませんでしたが、八瀬童子の血を引く一部の人が上京して柩の移動作業を手伝うなど、その歴史は現在でも脈々と続いているのです。
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