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国葬を行う法的根拠は、戦前では個別の勅令によるものが初期のもので、大正15年以降の後期は国葬法に基づきました。個別の勅令による期間が長く、国葬法による期間は短いことがこれで分かります。戦後は、国葬法が廃止されましたので、内閣の閣議によって決定された例外的対処が一例あるだけです。
国葬では、葬儀費用の全額が支給されますので、法的根拠が必要となり、その法的根拠の性格によって、誰が選ばれるかが影響します。個別の勅令の場合、国葬令による場合、閣議による場合、この3つの法的性格は違います。
天皇の葬儀は、一種の国葬ではありますが、「大喪の礼」として別格となります。天皇以外の皇族の葬儀も、一種の国葬でありながら、普通の国葬とは種類が違うものとして認識されます。
国葬に似たものに国民葬があります。戦前では、侯爵で内閣総理大臣だった大隈重信が国民葬で、戦後では、内閣総理大臣だった佐藤栄作も国民葬です。
諸外国にも国葬に該当する葬儀がありますが、それぞれの国が故人の特別な国家的功績を独自の基準により判断して決めています。
1967年10月20日正午頃、吉田茂は、大磯の自宅にて死去しました。葬儀は、家族によって東京カテドラルで行われましたが、それとは別に、遺骨となった吉田茂は、10月31日に日本武道館で国葬として、国民によって見送られました。国葬の様子は、テレビの特別番組によって報じられました。
国葬にする法的根拠は、従来、国葬法に拠っていましたが、国葬法が廃止されていたため、当時の総理大臣の佐藤栄作の強い要望により、閣議で決定された特殊なものとなりました。新憲法では、国による宗教行為の禁止があるため、野党が国葬に反対しましたが、宗教色を薄めることで切り抜け、国民の賛同もあったため、実施できることになりました。
戦後では、国民葬は、佐藤栄作の例があるくらいで、一般的には、内閣と政党とによる合同葬の形式を取ります。特殊な場合もあり、幣原喜重郎は衆議院葬で、三木武夫は内閣と衆議院とによる合同葬でした。それ以外の総理大臣経験者の数人は、内閣と政党とによる合同葬でした。
このように、国葬はもちろん国民葬ですら例外で、合同葬が標準になりつつあります。しかも、合同葬になる対象も、これまでの例では、総理大臣経験者です。
日比谷花壇は、1967年に「日本初めての生花祭壇」と呼ばれる、吉田茂首相の国葬を手掛けています。以降、花祭壇だけでなく、お別れの会・社葬全体のプロデュース事業を行っており、さまざまな著名人のお別れの会をお手伝いしています。興味のある方は是非、下記サイトをご覧ください。
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